History

未来のピースができるまで① 3Dディスプレイの開発(前編)


左から
佐藤達弥(イノベーション推進本部 成形材料開発部 部長)
葭原義弘(元光学材料技術部 上席執行役員、現カラーリンク・ジャパン 技術部 顧問)
浦和宏(イノベーション推進本部 成形材料開発部 第2グループ グループリーダー)
 

 

「未来のピースができるまで」では、当社がこれまでに生み出した“未来のピース”を取り上げていきます。ふだん知られることは少ないですが、当社は、世界に誇る日本発の未来の技術を開発しています。シリーズ第1回は、内視鏡手術などで使われる、医療用3Dディスプレイ開発の歴史と、医療・健康の未来について語ります。
 

ディスプレイ開発の歴史———長い暗黒時代

有沢製作所のディスプレイ開発の歴史は長いですが、投資規模にもかかわらず、そのうちほとんどが不遇の時代だったそうですね。

葭原:そうですね。私たちのディスプレイ事業は昭和46年(1971年)、某大手家電メーカーから依頼を受けて、テレビのスクリーン開発をスタートしたところが始まりです。それまでテレビでは、ブラウン管の爆発を防ぐ、ガラスのテープのような製品を採用していただいていました。その関係で声がかかり、アルミ箔を貼った小さな部材を見せてもらって、こんなスクリーンができればという相談がきました。営業部門と技術部門が検討し、アルミ箔を貼って一体にしたスクリーンを開発して納入したのがスタートだったと聞いています。最初のスクリーンはアルミ箔にプロジェクターで映す反射タイプのものだったのですが、その後リアプロジェクションテレビ(以下、リアプロ)用の透過型のスクリーンに変わっていきました。反射型スクリーンの需要は下がってしまったのですが、新たに透過型スクリーン用の材料としてフレネルレンズが必要になり、当社でそれを開発して製品化していきました。

リアプロというのがありましたね。フレネルレンズとはどのようなものですか?

葭原:映像は、光をレンズで集光して映します。50インチなどの大画面を映すような、すごく大きなレンズだと、凸レンズが大きくて厚くなってしまいます。その“光を曲げる”部分だけを切り出した、同心円状のレンズをフレネルレンズと言います。薄いレンズなのですが分厚いレンズと同じ効果が出せるようにカットしていきます。

それを自社で開発されたのですか。

葭原:アクリルの透明板をプレスして作るのが主だったのですが、だいたい1枚作るのに1時間ぐらいかかっていました。それだと市場が大きく伸びていく大型テレビにマッチできないから、家電メーカーさんからの依頼も受けて、量産化できる仕組みを一緒になって開発していきました。平成2年(1990年)頃に量産開始できるようになりました。リアプロは当時アメリカなどで、倍々ぐらいのペースで売り上げがどんどん伸びていきました。2004年頃のピーク時には、当社は年間約300万台のスクリーンを作っていました。

でもその後に、プラズマや液晶テレビが主流になって、また売上が激減するわけですね。

葭原:リアプロは2006年~2007年を境に販売台数がズドンと落ちてしまった。メーカーの皆さんも液晶テレビへ軸を移して、どんどんリアプロから撤退していくようになりました。本当に困りましたね。リアプロがすごく盛んだった当時、次のテーマを探しておかないといけないということで開発を始めていたのが、3Dディスプレイでした。

難航する「3Dテレビ」の事業化と、撤退の危機

佐藤:3Dの研究を始めたのは1999年からですかね。ブラウン管テレビを3Dにしようというところがスタートです。1年ぐらい研究したのですが、「次に来るのは液晶だよね」ということで、液晶から出てくる偏光を操って、立体的に見せる方式に注目しました。そして液晶テレビの3D化を検討し始めたのですが、非常に難航しまして…。

1999年頃から研究を始めて、技術ができ、試作品を作ってはプレゼンテーションをしに行きました。展示会にもいろいろ出しました。映像を見た皆さんが、「これはすごいですよ」と手で触るような仕草をして、とても喜んでくださいました。でもすぐに、「これでいったい何を見るのですか?」「何に使われるのですか?」というふうに切り返されてしまうのですね。当時は3D放送もないわけですから。何に使われるのかを問われるとお答えできなくて、非常に苦労しました。

そうですよね。まだ3Dテレビ放送はありませんでしたから。

葭原:だから何とかしようと考えて、ゲームであったり、アートであったり、いろいろな用途を模索しました。そして、とにかくいろいろな展示会に出展しました。さらに自分たちでテレビを作り、販売まで手がけたこともありました。2008年頃ですが、テレビに当社のXpol®(3D画像表示用フィルター)を貼り付けて、韓国メーカーと組んで製品化しました。3D放送はほとんどやっていませんでしたから、2Dを3Dに変換するコンバーターを作って内蔵し、2Dのテレビ番組を3Dで見られるようにしました。テレビの組み立てもして販売したのですが、売れなかった。

有沢製作所がテレビまで製造していたとは知りませんでした。

佐藤:大きな設備も導入して、「とにかくやるぞ」と。当社の上層部も含めて一生懸命に売り出しましたが、なかなかうまくいかなくて。実はその時に、3Dディスプレイ用の大きなラインを作りました。その設備投資が重すぎて何年やっても黒字にならないから、ある時に「もう3Dディスプレイ開発をやめる」と言いました。もうやめよう、この事業を畳もうとした時に出てきたのが、先の家電メーカーさんでした。頼むからやめないでくれと。民生用は無理だけど、医療用で偏光方式はきっと残るからと。今後必要な技術だからやめないでくれと頼まれて残したのが、今の3D技術です。

医療用3Dディスプレイに活路を見いだし、ついに黒字化へ

なるほど。やめようとしたのだけど頼まれて、やめずに粘ったわけですね。

佐藤:奥行き感を正確に認識することで操作性が向上する、内視鏡手術という限られたところですけど、必要とされる分野に採用していただきました。さらにその効果が医療分野に浸透し、当社の主力製品に育っていったわけです。やめないで良かった。生き残っていて本当に良かったと思いました。

3Dは1999年頃から開発をスタートし、諦めず粘っていたら医療用でついに突破口が開いた。苦節20年の期間を要しましたが、ようやく黒字化しましたね。

佐藤:そうですね。しかし年間を通して黒字化したのは最近です。まだ投資額は取り返してないですね(笑)。それまではガラスで3Dの機能を果たしていたのですが、フィルムで実現するためにパイロットラインを作ったり、合弁会社を作ったりと、その後もチャレンジを続けています。

(後編に続く)

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